「考える日本史」 本郷和人/著 他国に比べて、古代・中世までは実は貧しかった日本

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「知っている」だけではもったいない。なにより大切なのは「考える」ことである。信、血、恨、法、貧、戦、拠、知、三、異。たった漢字ひと文字のお題から、即興で歴史の森に分け入り、ついには日本史の勘どころにたどりつく―東京大学史料編纂所教授の新感覚・日本史教室、開講!教科書や通史は退屈だという人には特におすすめと言える。

第1章 「信」

第2章 「血」

第3章 「恨」

第4章 「法」

第5章 「貧」

第6章 「戦」

第7章 「拠」

第8章 「三」

第9章 「知」

第10章 「異」

「考える日本史」は、各お題をもとに日本史を語る形式になっている。信、血、恨、法、貧、戦、拠、三、知、異。ちなみに、文春新書の「日本史のツボ」も、天皇、土地、宗教、軍事、地域、女性、経済のツボをおさえれば日本史がわかるというもの。以下、本書に関連するテーマについて考察したい。

 

古代・中世までは貧しかった日本 「貧」

 

古代から中世(8世紀から11世紀)の期間は低成長の時代だった。

古代国家は、積極的な墾田政策、律令などの法令整備によって平安時代前半には大幅な農業収入の増加を達成したが、社会をまとめる制度そのものに限界が存在し、低い水準の農業技術では成長を維持することは不可能であった。特に、頻発する飢饉や大陸から伝播してきた疫病によるマイナス要因は高かったと考えられる。

 

最初の持続的な成長を確認できるのは、中世(12世紀から16世紀)の期間である。

この時期は、農業生産の向上、各地における流通・商業の発展がみられ、文献をみても、土地からの生産部門に商業・流通という新たな成長部門が加わり、それらが相互に作用しながら経済が進むという近世の経済成長の特徴の萌芽をみることができる。

中世後半、特に戦国時代は飢饉と戦乱による荒廃した時代とのイメージが強いかもしれないが、数量的分析は逆の結果となっている。

 

戦国時代に全国各地で大名による領国支配が進んだ結果、戦乱の時代を生き抜くために、大名達が統一的な法令・租税制度を整備して領国市場が形成されていったこと、つまり、それぞれの領国で富国強兵策を進めたことにより、生産が増加していたといえよう。

 

近世から近代(17世紀から19世紀)にも生産の拡大が確認できる。この間の成長の特徴は、第一次部門だけでなく、第二次部門・第三次部門の成長も加速していることである。

鎖国」という実質的には対外貿易からえられる利益の見込みがないなかで、経済成長が持続できたのは、内需の拡大があった。

具体的には、近世前半に、日本全国で城下町が新たに建設されていき、城下町建設による建設業を中心とした製造部門の効果があったこと、城下町に武士が集住したため、そうした武家層を対象とした商業・サービス業が発展したことも大きい。

 

近世後半の成長は、列島各地における農村工業の進展とそれにともなう商業・サービス業の拡大があった。そして、幕末期には開港による海外貿易開始の影響で農村工業品の生産が増加したものによると考えられる。

この推計結果を各国の前近代社会と比較してみよう。比較にはGDPを総人口で除して算出した1人あたりGDPの値(1990年国際ドル基準)をもちいる。

まず、アジアの文明国(中国・インド)と比較する(図2)。目を引くのは、古代・中世の日本は経済的には長らく貧しい国であったことである。

 

平安時代後半の日本の1人あたりGDPは中国(宋)に対して6割程度の水準にとどまっており、ようやく持続的な経済成長の兆しをみせはじめた中世後半でも依然としてその差は続いている。

日本がようやく先行する文明国に追いつくのは近世に入ってからで、インド(ムガル帝国)を17世紀中に、中国(清)を18世紀中に追い抜く。

もちろん、これは日本の着実な経済成長があったからこそではあるものの、一方で、広大な国土と巨大な人口を抱え、さらに西欧諸国の干渉にさらされていた中国とインドの失速そのものの影響も大きかったと考えられる。

 

城の近代化 「拠」

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城という字をよく見てみると、「土」から「成る」となっている。このことが示す通り、全国に4万~5万あるといわれる城の大半は土でできており、石垣に天守がそびえるようなものは一割にも満たない。戦国時代にはこのような「土の城」が各地につくられた。これらの城は、武力によって領地を奪い合う「陣取り合戦」において、敵の侵攻を食い止める「カベ」の役割を果たした。そのため、この頃の城兵は戦争の時だけ城に「出勤」し、平時は別の場所で暮らしていたようだ。

 

土の城の多くは山につくられた。城兵の身になって考えると、地形を利用できる分、平野より山の方が守りやすいのは疑いない。敵を防ぐことが目的の城にとって、最も重要な施設は「堀」だ。どれだけ頑丈な建物があっても、入城がフリーパスでは意味がない。その城の守りやすさ(=攻めにくさ)は堀をどう掘るかによって決まるのだ。堀の幅はだいたい五間(約10m)前後のものが多い。これは当時の弓矢の射程と関係していたようだ。しかし、やがて、この堀の幅を大きく変化させる出来事が起こる。

他にも、度量衡・通貨制度の統一、五街道の整備、村単位で年貢や諸役を包括的に負担する村請制度の確立など、社会経済の機構・制度が全国的に整備されたことも、生産の拡大を進める要因として挙げられる。

 

1543年にポルトガルから伝わった鉄砲は、戦国最強といわれた武田の騎馬隊を織田信長が打ち破った「長篠の戦い」を契機に日本中へと広まった。この「新兵器」の登場は、軍事施設である城のあり方にも大きな影響を及ぼす。その最たるものが、前述した堀の幅である。弓矢の倍以上の射程を持つ鉄砲の進撃を防ぐため、城にはより広い堀が必要となったのだ。しかし、急峻な山にはとてもそんな場所がない。こうして、城は広い堀を求めて、なだらかな山や丘、平野へと「下りて」いったのだった。

 

信長、秀吉によって天下が統一されると、各地の陣取り合戦はなくなり、諸大名の軍勢は国の秩序を維持するために使われるようになる。大名たちは将軍の命令にすぐに対応できるよう、城に常備兵を置き、自らも城内に住むようになった。こうして城には、軍事拠点としてだけでなく、住居としての役割が求められるようになったのである。

 

日本が中国から導入しなかった3つの制度 「知」

 

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日本は歴史上、中国の歴代王朝から多くのことを学んできたと言える。遣唐使や遣隋使を派遣し、当時の王朝の進んだ文化を積極的に導入してきた経緯があり、現代の日本においても中国発祥の文化が数多く残っている。

 

 しかし、日本は中国の文化だからといって、何でも無条件に学び、導入してきたわけではない。中国メディアの快資訊はこのほど、「中国から積極的に学んできた日本だが、決して導入しようとしなかった制度が3つある」と論じる記事を掲載した。

 記事は、唐王朝から宋王朝の時代にかけて、日本は当時の中国を敬い、積極的に文化を学んできたとし、その意味で、中国は日本文化の母と言えると主張。多くの事物を中国から学び取った日本だが、「決して学ぼうとしなかった制度も存在する」とし、それは「科挙制度」、「宦官」、そして、「諸子均分制」だと指摘した。

 科挙制度とは中国の歴代王朝で行われた官僚登用試験で、非常に難易度の高い試験としても知られている。官僚になることができれば一生安泰出会ったため、多くの人が官僚になるために科挙に挑んだとされる。だが、その制度の弊害としては「読書や勉学のみが尊い」という風潮が広まり、そのほかのことが軽視される傾向が生まれたことだと言われている。

 また宦官は去勢した官吏を指す言葉だが、中国の歴史のなかで宦官が国の衰退や滅亡を招いた事例は少なからず存在する。そのほか、諸子均分制は中国の相続方法であり、その言葉のとおり一家の財産はすべての子に均等に分配する制度だ。日本の場合は長子相続が採用されてきた経緯がある。「これら3つの制度は中国の発展を束縛してきた悪習」との見方を示し、日本は中国の制度を「取捨選択」のうえで取り入れてきたことがわかる。