一日一生 酒井雄哉(著)/ 一日が一生、と思って生きる

一日一生とは

「一日を一生のように生きよ、明日はまた新しい人生」。

現代の〝生き仏〟と称される酒井雄哉大阿闍梨の慈雨の言葉集。

生々流転を経て、比叡山千日回峰行を二度満行、いまだ歩き続ける。

なぜ生きるのか。

いかに生くべきか。

人生に迷うすべての人に。

「あせらず、あわてず、あきらめず、無理をしない」

「仏さんには、なんもかんもお見通しかもしれないよ」

 

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第一章 「一日一生」

・一日が一生、と思って生きる

・身の丈に合ったことを毎日くるくる繰り返す

・仏さんは、人生を見通している

・足が疲れたなら、肩で歩けばいい

・ありのままの自分としかっと向き合い続ける

・「一日」を中心に生きる

・人は毎日、新しい気持ちで出会える

 

第二章 「道」

・生き残ったのは、生き「残された」ということ

・長い長い引き揚げの旅が教えてくれたこと

・人の心には闇がある

・人生の出会いはある日突然やってくる

・自分は何のために生まれてきたのか、なにするべきか問い続ける

・その答えを、一生考え続ける

 

第三章 「行」

・衣を染める朝露も、いつしか琵琶湖にそそぐ

・歩くことが、きっと何かを教えてくれる

・息を吸って、吐く。呼吸の大切さ

・仏はいったいどこにいるのか

・学ぶこと、実践することは両輪

・ゆっくりと、時間をかけて分かっていくことがある

 

第四章 「命」

・子供はおぶったりおぶわれたりして育つ

・夜店で母が隠した父の姿

・心と心が繋がっていた父と母

東京大空襲の時に鹿児島で見た夢

・命が尽きれば死んで、他の命を支えるんだよ

 

第五章 「調和」

・桜は、精いっぱい咲いている

・人は自然の中で生き、生かされている

・心のありようはいろいろなものに作用される

・本当は同じものを見ているのかもしれない

・まだ、たったの三万日しか生きていないんだなあ 

 

千日回峰紀

 

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比叡山の峰や谷を7年かけて計1千日巡り、礼拝する厳しい修行。雨の日も嵐の日も、ひたすら夜中に寺を出て、比叡山中約40キロを歩き、午前中に寺に戻るというものだ。行の途中では、何があっても中断することは許されない。もしも途中で、この行を出来なくなった時は、たちまち自死して果てるという、そのくらいの覚悟を持って、行者たちはひたすら、千日山々を廻るのである。山川草木などあらゆるものに仏の姿を感じながら歩く距離は地球1周分(約4万キロ)。修行を始めてから700日を超えると9日間、食事や水、睡眠を断って不動真言を10万回唱える「堂入り」の行が課される。その後は山中だけでなく、京都市内でも礼拝する。満行すると、行者は大阿闍梨と称され土足で宮中に参内することが許されてきた。 酒井師は、この荒行を二回行った。二千日回峰行を成功させた行者は、長い比叡山の歴史の中でも信長の比叡山以後3人しかいない。

 

酒井雄哉さかいゆうさい)

 

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酒井師は、元々はごく普通の人。というよりどちらかと言うと、落ちこぼれの人生を送っていた。

1926年(大正15年)大阪で生まれたが、父の会社が倒産して5歳で東京に引っ越す。麻布中学を受験したが受験に失敗。夜学の商業高校に入学。しかし学業に身が入らず、教師の奨めもあり、1944年(昭和19年)予科練に入る。運良く特攻隊で命を散らすことなく生還。若い頃は、さまざまな職業を点々とした。

株売買のブローカーを父親とやっていた頃、大金を稼いだこともあったが、1953年、ソ連の独裁者スターリンが死んで、「スターリン暴落」が起こる。丁度今のサブプライムローン暴落のような金融危機だった。大損をして、借金取りに追われた。

いい歳だというので、親戚が気を使って、従妹(いとこ)の女性と結婚をする。しかしこの女性が大阪の実家に帰ってしまう。びっくりして、東京から大阪まで追いかけていくと、少しして、奥さんはガス自殺をする。結婚して二ヶ月しての出来事だった。せめて49日はいてくれと、義父(叔父でもある)にせがまれ、妻の実家の鉄工所を手伝うことに。何故か居座っているうち、義母(叔母)が、気分を転換させようと比叡山に連れて行くことがあった。

 

それから比叡山に行くようになった。そこで偶然、千日回峰行中の行者に出会う。その行者は、千日回峰行でももっとも厳しいとされる「堂入り」の最中だった。場面は、9日間籠もっていた堂から出てくるところ。何しろ堂入りは、9日間不眠・不臥・断食・断水で不動明王真言を10万遍唱えるという常人の思考を遙かに越える過酷な修行だ。その行者宮本一乗阿闍梨の姿に触れた時、若き酒井師の心に強く響くものがあった。運命の出会いだったかもしれない。それからだいぶ時が経って、自分も出家し、千日回峰行を行う道に入っていくのである。

 

そして39歳(1965)で出家した。親子ほどの若者と一緒に、小僧修行に励む。それまでの落ちこぼれ人生がウソのようになり、叡山学院を首席で卒業し、天台座主賞を受賞したほどだ。そしていよいよ1973年千日回峰行に挑む。それから七年後の1980年、第一回目の千日回峰行に満行。引き続き二度目の回峰行を1987年に満行して、二千日回峰行を達成。大阿闍梨(だいあじゃり)となった。

 

最後に酒井師の言葉を贈りたい。「生きとし生けるものの命はみな繋がっている。そう思うと、死は恐ろしいもの、寂しいものではない。一日でも長く生きて、良い結果を残していけば、来世に繋がっていく。そう思うと、毎日にはりが出て、楽しくなる。せっかく命があるのだから、日々、この地球のさまざまの命のことを思いながら、少しでも良いことをして生きて生きたいものだね。」