「生誕110年東山魁夷展」の東京展 国立新美術館にて開催

生誕110年東山魁夷

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『生誕110年東山魁夷展』の東京展が2018年10月24日(水)~12月3日(月)国立新美術館にて開催される。

明治41(1908)年、横浜に生まれた東山魁夷は、東京美術学校を卒業し、ドイツ留学の後、太平洋戦争への応召、肉親の相次ぐ死といった試練に見舞われるが、そうした苦難のなか風景の美しさに開眼し、戦後はおもに日展を舞台に活躍した。自然と真摯に向き合い、思索を重ねながらつくりあげられたその芸術世界は、日本人の自然観や心情までも反映した普遍性を有するものとして評価されている。

本展では、代表作である《残照》《道》《緑響く》のほか、ヨーロッパや京都の古都の面影を描いた風景画など本画約70点と習作により、国民的画家と謳われた東山魁夷の画業の全貌をたどる。また、構想から完成までに10年を要した東山芸術の記念碑的大作、奈良・唐招提寺御影堂の障壁画(襖絵と床の壁面全68面)を再現展示する。御影堂の修理に伴い、障壁画も今後数年間は現地でもみることができないため、御影堂内部をほぼそのままに間近に見ることができる大変貴重な機会となる。東京では10年ぶりの本格的な大回顧展だ。

(HPより)

生誕110年 東山魁夷展

 

東山魁夷の履歴書

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 横浜で生まれ神戸で育った魁夷は、父の遊び癖に悩む母を喜ばせたいと、「大きくなったら偉い人になるんだ」と思い続けていた。自然に恵まれて育った彼は画家になりたいという願望が次第に強まり、反対する父親をしぶしぶ承知させ、現在の東京芸術大学日本画科へ入学する。実家が経済的に困窮しているときは自ら学費を稼ぎ、卒業後にはドイツへの留学を現実にした。初めは自分の蓄えで渡航、のちには交換学生の推薦を受けて、2年間の留学生活を送ったのだった。

 家族のためにも早くいい作品を描きたいと焦る魁夷だったが、友人たちが華々しく脚光を浴びる中で彼の作品はなかなか評価を得られなかった。迷いながら日々、自然を眺め、手探りの絵を描いていた彼に訪れた転機は、皮肉なことに戦争と家族の死であった。

 終戦近くに召集を受け、爆弾を抱えて敵陣へ飛び込む惨めな特訓の合間に、彼は熊本城へと走らされる。自らの死を目の前にして眺めたその時の風景に、魁夷の心には今までになかった感動が湧きあがる。「・・・どうしてこれを描かなかったのだろうか。今はもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったというのに・・・」汗と埃にまみれて、彼は泣きながら走り続けた。

 既に兄を結核で亡くしていたが、続いて戦中に父が、戦後ようやく再生の一歩を踏み出したところで母が、更に第1回日展での落選直後、結核で療養中だった最後の肉親である弟が、それぞれ他界してしまった。

 やっとのことで再び絵筆を手にしたとき、彼は全ての肉親を失い、絶望のどん底にいた。諦念、そして全てあるがままをうつす静かな心境・・・これが結実し初めての評価を受けたのが、2年後の「残照」であった。戦争のさなか開眼した魁夷の目は、確かに自然の息吹を捉えるようになったのである。

その後の魁夷の絵は、それまで以上に生命を感じさせるようになる。彼の「色」は反射光を捉えたものではなく、数え切れないほどの生命の存在を「影」として捉え、それを無数に重ねて生まれてくるものである。生きている木々の吐息を、風の匂いを、ひとつひとつつぶさに重ねてゆき、その画面からはさざなみのようにいのちの鼓動が伝わってくる。

 多くの画家たちは、光の反射を捉えて描く。魁夷のそれは、光を吸収したあとのものの「影」を感じ、描かれたものであろう。静謐で繊細な、四季折々の顔を持つ小さな島国であるからこそ気がつくことの出来る、自然界のささやかな生命の営み。魁夷は日本人ゆえに育むことの出来た、「影」を捉える目を持った画家だと思う。古来、日本に存在した「かさね色目」。彼の色彩にはそれに通ずる感覚がある。

 そしてそのやさしい色合いの絵からはとても想像できないほど、芯の強さを備えた人なのだ。本物の強さは、重なるとやさしさに変わる。

 日本画家としてその評価を確立した魁夷は、東宮御所や皇居宮殿、唐招提寺障壁画の大作をも依頼されるほどになる。その合間に北欧・京都・ドイツ・中国などを旅し、自然の姿に感動し、その画風に厚みを増していった。彼の絵には、かつて彼自身が人生で感じた何らかの感情を含んでいる。静かに自然を見つめたとき、そこには彼がどこかで経験した、心の風景が投影されるのである。人のあらわれない魁夷の風景を見たときに感じるほんの僅かな人為は、この感情が風景の中に隠れているからなのだ。心象の風景画・・・それが東山画伯の絵であろう。

 

残照

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39歳の冬、東山は何かに導かれるように鹿野山の頂へと至った。

「足下の冬の草。私の背後にある葉の落ちた樹木。私の前に果てしなく広がる大と谷の重(つら)なり。この私を包む天地のすべての存在は、この瞬間、私と同じ運命に在る。静かにお互いの存在を肯定し合いつつ、無常の中に生きている」(『東山魁夷画文集 私の風景』)。

絶望の淵で東山が見たもの、それは命の輝きだった。運命的な風景を深く胸に刻みながら筆を執る。そして描いたものが「残照」(1947年)である。

冬の陽射しを浴びた山並みが幾重にも重なり合いながら、なだらかに遠くへと続いている。手前には暗く茶褐色に彩られた山肌。それが次第に青紫へと色を変え、遠くの山の斜面は夕陽を浴びて仄かな薄紅色に染まっていく。山並みの上に広がるのは、美しく澄み切った雲一つ無い冬の空。その風景は見る者に無限の広がりを思わせる。

 

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「ひとすじの道が、私の心に在った。夏の早朝の野の道である。青森県種差海岸の牧場でのスケッチを見ている時、その道が浮かんできたのである。正面の丘に灯台の見える牧場のスケッチ。その柵や、放牧の馬や、灯台を取り去って、道だけを描いてみたらーと思いついた時から、ひとすじの道の姿が心から離れなくなった

昭和25年に、種差海岸を再訪(訪れた観光客と馬とが混在しているという風景は、昭和40年ころまで続いていました)。

そうして完成したのが『道』だったのです。

 

緑響く

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 「一頭の白い馬が緑の樹々に覆われた山裾の池畔に現れ、画面を右から左へと歩いて消え去った―そんな空想が私の心のなかに浮かびました。私はその時、なんとなくモーツアルトのピアノ協奏曲*の第二楽章の旋律が響いているのを感じました。

 おだやかで、ひかえ目がちな主題がまず、ピアノの独奏で奏でられ、深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられるオーケストラの調べが慰めるかのようにそれに答えます。白い馬はピアノの旋律で、木々の繁る背景はオーケストラです。」

開催期間は、2018年10月24日(水)~12月3日(月)。興味のある方は、是非国立新美術館に足を運んでみては如何でしょうか。但し、週末は混雑が予想されるためHPで混み具合を確認してからお出かけ下さい。